大谷焼の概要
大谷焼は徳島県鳴門市大麻町において約230年の歴史がある徳島を代表する陶器です。
大谷の土は鉄分が多く、ざらりとした風合いとかすかに金属的な光沢を感じさせる質感は、素朴な土の味わいをかもし出した焼き物として人気です。こげ茶色が一般的ですが、深い銀色や灰色の作品もあります。
大谷焼の特徴としては、製法にもあり、身の丈ほどもある大甕などの大物陶器を作る際において「寝ロクロ」(助手が作業台の下に寝ころび足で蹴ってロクロを回す)が有名です。これらの陶器を焼き上げる「登り窯」の大きさは日本一といわれています。
また、大谷焼は、平成15年に経済産業省の伝統的工芸品に指定されていて、毎年11月には東林院境内において、窯元合同の陶器市・大谷焼窯まつりが開催され、多くの人で賑わっています。
大谷焼の歴史
大谷焼は、江戸時代後期、安永9年(1780年)に、四国八十八カ所霊場の巡礼に来た豊後の国(大分県)の焼き物細工師・文右衛門が、大谷村を訪れ、はじめてロクロ細工を披露し、赤土で焼き上げたことが始まりといわれています。
当時、阿波の国(徳島県)では、焼き物は極めて珍しく、その妙技に興味を持った時の12代藩主・蜂須賀治昭公は、これとは別に南京・唐津と呼ばれた磁器を焼くよう命じ、九州より職人を多く雇い入れて天明元年(1781年)大谷村に藩営の窯(藩窯)が築かれ、阿波で始めて染付磁器が焼かれることになりました。
しかし、高額な原材料を九州から取り寄せるなどしていたため採算が取れず、僅か3年で藩窯は廃止されました。
その後、藩窯の創世にも尽力した藍商人の賀屋文五郎(笠井惣左衛門という)が旅先で、知り合った江州(現滋賀県)信楽焼の職人忠蔵を連れ帰り、弟の平次兵衛に陶器製造に関する技法を習得させ、天明4年大谷村(現在の鳴門市大麻町)に登り窯「連房式登窯」を民窯として築き、陶土と釉薬を地元の萩原と姫田から調達し、水甕、藍甕など大物陶器の生産を開始したことが現在の大谷焼の始まりだといわれています。
最盛期には、数十軒の窯元が点在したといわれていますが、現在作陶を続けているのは、7軒のみとなっています。
大谷焼の主な生産地
徳島県鳴門市大麻町
大谷焼の利用方法
最近は大型の水甕や睡蓮鉢だけでなく、湯呑みや茶碗など身近な実用品や、インテリア製品など数多くの製品が作られています。
大谷焼の製品
- ◇ 日用雑器:
- コーヒーセット、湯呑、燗徳利、ぐいのみ、小皿、向付、灰皿、土びんなど
- ◇ 茶器:
- 茶碗、菓子鉢、水指、香合、など
- ◇ 装飾品:
- 飾り皿、掛額、各種置物、壁掛、壺
- ◇ ガーデンファニチャー:
- 腰かけ、テーブル、灯ろう
- ◇ 大物:
- 水甕(最大級6石)、水蓮鉢(最大級4.3尺)、傘立
- ◇ 建築用陶器:
- 飾煉瓦、化粧煉瓦、陶芸クラフト
- ◇ 花器:
- 各種花器
- ◇ その他の陶器:
- 植木鉢(大物、小物(素焼鉢など))、野花立、給餌器